新元号と、地域の歴史

もう10日ほど経ってしまいましたが、

新元号が発表されました。

 

出典は万葉集とのことですが、

実は、弘法寺のある和泉市万町は

万葉集の注釈書『萬葉代匠記』の著者である僧・契沖ゆかりの地。

 

契沖は、延宝2(1674)年からの4~5年間、

万町の大庄屋である伏屋家の邸内にある養寿庵にこもり

和漢書の研究に精励していました。

 

『契沖全集』第三巻(久松潜一氏監修)・萬葉代匠記巻第五を紐解くと、

新元号の典拠とされる

「梅花歌三十二首并序」

「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」

が掲載されており、契沖が解説を加えています。

 

契沖全集

 

ちなみに『萬葉代匠記』は

水戸黄門でお馴染みの水戸光圀公からの依頼で契沖が編纂したもの。

 

契沖が行った、文献を拠り所とする研究は

現代にも通じる文献学的・実証的なもので、

 

契沖以前の注釈が古注、契沖以後の注釈が新注と言われるほど、

国文学研究に多大な影響を与えて、

「国学の祖」とも呼ばれいます。

 

石尾山弘法寺と名前を同じくする

お寺のほど近くにある石尾中学校の学舎の前には、

僧・契沖を称えて「国学発祥の地」との碑が建っており

 

その碑文は

昭和の国文学者・佐々木信綱氏が書かれています。

 

国学発祥の地(僧・契沖)

 

さらに付け加えるならば、

 

契沖が万町に身を寄せていた

まさに同時期に

 

談林派の俳人・西山宗因が万町を訪れ

庄屋当主・伏屋重賢と槇尾山を通り高野山に詣でているので、

 

歌詠みでもあった契沖と西山宗因が

万町で出会っているかもしれないのも、

また面白いわけです。

 


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